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周りの景色はゆっくり流れているのに、どうもそれがしっくり肌に馴染まない。というか、自分の中の時間の速度と、周りの時間の速度が噛合わないような感触がずっと続いている。

思い出したように悲しんでみたり、思い出したように笑ってみたり、思い出したように忘れる。信号は赤なのに自分がなぜ止まっているのかわからない。青だから進む、赤だから止まる、それがなぜだかわからない。

ルーティンワークの最中にいれば、その速度に囚われず、理由や意義にも囚われないまま生活は続いていく。矛盾はないし、疑問もない。思い出すように電話を掛け、思い出すように朝食を食べ、思い出すべきことを思い出すようにしている。かさぶたのしたから、またかさぶたが産まれるような感覚が止まずに訪れる。

些細な疑問は思い出さないように、煩雑な雑音は聞かないように、そのように正常ぶって振舞ってみていても、やはり以前の姿とは違う姿で鏡に映る自分を見て、どこまでいっても真直ぐな道を進むような思いを抱く。

どこから正常でどこから非正常なのか、モラルとも言うべきそれが、社会性とか公共性よりという法治よりも、感情や愛情というような人治にベクトルが傾いているのは、おそらく今の僕にとって正常な事なんだろうということへの確信だけは、相変わらず続く似た様な躓きと既視感溢れる日常という一本縄の上に、危ういバランスを保っている。仮設住宅に住む、という意味においてもたぶんそれは正しい。
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無人の我が家やら街やらを眺めていての雑感は散文染みている。
ノスタルジックであったり、シニカルであったり、ペシミスティックだったり、とりとめがない。ひとつの括りに出来ないから、悲しみを主観としたドキュメント仕立てにしたり、子供を主体とした将来の物語にしていくのだろう。それらの取捨作業は、時に視聴者と名づけられた人たちの受動の選択や、時に配信者という能動的な人たちによって、漸進的に行われていく。

そういう「表現の為の表現方法の選択」というフィルターを通した後に水面上に浮かび上がる映像や文は、一時的な感情は喚起しても、跡に残らない。忘れていく。忘れないために継続する。それでも忘れていく。だからマスメディアはそこに自覚的になり、場合によっては自覚的になりすぎて、結果消費されていく。

水面上のオラトリオは常だって美しく、欠損のないステンドグラスみたいなものだ。完成された映像美だろう。目的も主観も統一された意思ある建造物だ。長い年月を経て、いつの間にかディファクトスタンダードとなった「オラトリオ」という言葉の意味とよく似た意味で、よく出来たショーだし、そうせざる得ない理由も先に書いた。

翻り、思う。
目的もなく、主題もなく、美しくもなく、大げさに言えば受難ですらあり、完成もされないこの水面下にあって、本来的な意味でのオラトリオがこの土地に生まれつつある。ちょっと悲しくはあるけれど、とりとめなく感情や思い出だけが渦巻くこの土地に、オラトリオと名づけることが出来れば、そこに人々が集い、そしてまた新しく名前をつけていくんだと思う。彼らの楽章は終わってしまい、声はもう聞こえないけれど、僕らに歌える楽章はまだ数多く残っている。
浮ついた毎日を送っている。ただの会社員たる僕の身には過ぎたる話ばかりで、昔取った杵柄だとか、信頼関係がここに生きてくるとはとても思っていなかった。何か生み出すとすら思っていなかった。ただ現実に何かを生み出そうとしている。

薄い乳白色の仮設住宅の天井を眺めながら思うことは、実にいまさらな話で。心を失い、身を削るような毎日の中で、帰る場所、家族、友人、そんな当たり前が損なわれずに、寧ろ確たるレゾンデートルをもってそこにある事にいまさら気づき、思う。ああまだ僕らには生きる理由もあって、目的もあるんだと。

この浮き沈みの激しく、見損なうことも多い日々の中に在って、誰かに対価を求めずとも、自我にカタルシスを求めずとも、まだまだ僕らにやれることはあるんだと、見損なうような人格や、損なわれるだけの関係ばかりじゃないと思うと、無性に、その無償に、思わず泣けてくる。そこに掬えるものはきっとあるんだと信じられる。

たとえばこの試みが無産だとしても、何かを残すことはできたんだと思える確信がある。その日々はとても幸せだと思える。たとえば隣に座る人がいないあなたとか、あるいは僕とかに、一時でもその共感を、シンパシーを提供できると。確たる証拠はないが信じている。それはたぶん最後まで揺るがない。

ただ、誰かに言わせればまだ僕らは浮き足立っているし、同意する。すごく皮肉で平易な比喩だけど、僕らはまだ、あの日の波に流されたまま漂う海月でしかないように思う。確信は得た。次は指針なんだと思っている。


ずっと、6年も密やかなSNSで続けてきたブログを移転する。二つのSNSをまたぐのが面倒というのもあるけれど、僕自身のが追求しえることも、またたった一つでしかないという自戒も、大げさながら込めている。

たぶん人が見ても何も面白くないけれど、日記なので許されると思う。
 
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