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無人の我が家やら街やらを眺めていての雑感は散文染みている。
ノスタルジックであったり、シニカルであったり、ペシミスティックだったり、とりとめがない。ひとつの括りに出来ないから、悲しみを主観としたドキュメント仕立てにしたり、子供を主体とした将来の物語にしていくのだろう。それらの取捨作業は、時に視聴者と名づけられた人たちの受動の選択や、時に配信者という能動的な人たちによって、漸進的に行われていく。

そういう「表現の為の表現方法の選択」というフィルターを通した後に水面上に浮かび上がる映像や文は、一時的な感情は喚起しても、跡に残らない。忘れていく。忘れないために継続する。それでも忘れていく。だからマスメディアはそこに自覚的になり、場合によっては自覚的になりすぎて、結果消費されていく。

水面上のオラトリオは常だって美しく、欠損のないステンドグラスみたいなものだ。完成された映像美だろう。目的も主観も統一された意思ある建造物だ。長い年月を経て、いつの間にかディファクトスタンダードとなった「オラトリオ」という言葉の意味とよく似た意味で、よく出来たショーだし、そうせざる得ない理由も先に書いた。

翻り、思う。
目的もなく、主題もなく、美しくもなく、大げさに言えば受難ですらあり、完成もされないこの水面下にあって、本来的な意味でのオラトリオがこの土地に生まれつつある。ちょっと悲しくはあるけれど、とりとめなく感情や思い出だけが渦巻くこの土地に、オラトリオと名づけることが出来れば、そこに人々が集い、そしてまた新しく名前をつけていくんだと思う。彼らの楽章は終わってしまい、声はもう聞こえないけれど、僕らに歌える楽章はまだ数多く残っている。
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